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渡辺正直と当団体のあゆみ




歴史

 渡辺正直は、静岡障害者自立生活センター(後にNPO法人ひまわり事業団として発展)の創設者であるとともに、2012年10月に急逝するまで、静岡における障害者運動のリーダーとして活躍しました。
 日々の生活に人工呼吸器を使用する重度障害者(進行性筋ジストロフィー)の立場から、渡辺は常に地域社会に対して強いメッセージを発信し続け、静岡の福祉施策に大きな影響を与えてきました。
 その功績はあまりに大きく、とてもひとことでは言い表せないほどですが、この展示を通して、渡辺正直と静岡障害者自立生活センターのあゆみを少しだけ振り返ってみたいと思います。

  

日本の障害者運動のあけぼの、静岡の自立生活運動のさきがけ

〈1970年代終わり~80年代始め〉
 障害者に対する差別と偏見がまだ社会に根強く存在していた時代、全国各地では一部の障害者たちが、自らの権利を求めて果敢に立ち上がり、過激ともいえる闘争を展開していました
 (大規模収容施設における非人道的な処遇に対して抗議する「府中療育センター闘争」や、脳性マヒ者の団体「青い芝の会」による川崎バスジャック事件等)。
 こうした時代のいぶきの中で、静岡の自立生活運動は産声を上げました。施設や親元から決死の覚悟で飛び出してきた、渡辺正直を中心とする数名の障害者たちが、駿河区豊田町にあった古い木造一軒家を借りて「ひまわり寮」を設立し(1979年)共同生活を始めたのです。 その頃はまだ、町中で車椅子の姿を見ることなどは珍しく、障害者は施設に収容されるか、親元で息をひそめて生活していた時代でした。 もちろん、公的な諸制度や介助保障なども皆無に近く、ひまわり寮に集った仲間たちは、日々の生活に支援者やボランティアの助けを借りざるを得ませんでした。
 それでも、ひまわり寮の住人たちは、「車椅子の納豆屋」として行商したり、廃品回収やバザー(どろんこ市)をしたり、済生会病院の駐車場管理を請け負ったりする中で、次第に周辺住民に受け入れられ、静岡の地に根付いていったのです。

静岡障害者自立生活センターの設立、そして交通バリアフリーへの取組み

〈1980年代中盤~90年代前半〉
 ひまわり寮で生活経験を積んだ仲間たちは、次々に周辺地域にアパートを借りて自立生活をはじめました。渡辺正直もそのひとりです。
 渡辺は、毎晩ボランティアの泊まり介助を受けながら生活する一方で、それまでひまわり寮の中にあった自立生活センターを「静岡障害者自立生活センター」として駿河区豊原町に独立させ、その代表として就任しました。
 渡辺たちは、まだ日本では馴染みの薄かったアメリカの自立生活(IL)運動をいちはやく取り入れて、ピアカウンセリングやILP(自立生活プログラム)といった先駆的な取り組みを地域に紹介していきました。
 1992年には「カナダ・アメリカ福祉研修旅行」を企画。サンフランシスコにおいて、自立生活運動創始者のエド・ロバーツと念願の対面を果たしました。
 また、この時代は、駅にはエレベーターなどが無く、車椅子でバスや電車に乗ることが困難だった時代です。 渡辺たちは「誰もが使える公共交通機関」を求めて、JR安倍川駅にスロープを設置する運動や、「ひまわり号」を走らせる運動を展開いたしました。 「ひまわり号」とは、電車に乗った経験のない障害者のために、JR(当時の国鉄)の車両を一日借り切ってレクリエーションに出かけると共に、交通バリアフリー実現をアピールするための全国運動です。 渡辺はこの「ひまわり号を走らせる静岡実行員会」の初代実行委員長を務めました。

公的介助保障の実現、そして24時間介助保障を求めて

〈1990年代中盤〉
 重度障害者が地域で自立生活をおくる上で、「食事やトイレ・入浴などの日常的な介助をどう確保するか?」ということは、常に大きな課題でした。
 行政から派遣されて来るヘルパーは、せいぜい週に2回1時間ずつ、大部分が女性ヘルパーであり、渡辺正直のような重度障害者が使えるような制度ではありませんでした。
 「制度が不十分なら、自ら創り出すしかない」こう考えた渡辺たちは、会員制の有償介助システム「ホットハート静岡」を立ち上げました。 「ホットハート静岡」は、「障害者の介助はボランティアが当たり前」とされていた時代に、はじめて有償という概念を持ち込み、行政ヘルパーでは不可能であった早朝・深夜・休日にもヘルパーを派遣するという点で先進的でありました。
 自ら介助サービスシステムを創った渡辺たちですが、最終的な目標は、あくまでも「24時間365日の公的介助保障の実現」でした。
 1995年、渡辺たちの市への粘り強い働きかけが功を奏し、静岡市に「登録ヘルパー制度」が誕生しました。 これは、障害者が自らのボランティアを市にヘルパーとして登録し、介助を受けた場合の報酬が市から直接ヘルパーに支払われる、という当時としては画期的な制度でした。 これによってはじめて、静岡でも重度障害者がボランティアに頼ることなく自立生活をすることが可能となったのです。
 この時代、障害者運動によって全国各地に作られた「登録ヘルパー制度」は、2003年支援費制度の下で制度化され、現在の障害者総合支援法における「重度訪問介護」へと発展していきました。

静岡市初の車椅子議員の誕生

〈1990年代終わり~2000年代中盤〉
 1999年、渡辺正直は静岡市議会議員選挙に挑戦し、はじめての選挙で見事に当選を果たしました。静岡市初の障害者議員の誕生です。
 渡辺はさっそく議場のバリアフリー化に着手しました。電動車いす姿で演壇に上がり、当事者の立場から静岡市の福祉改善を訴える姿はマスコミなどにも多く取り上げられました。 また、人工呼吸器を使用しながら、常にヘルパーを同伴して議員活動をする姿は多くの人たちを勇気づけることにもなりました。
 渡辺は静岡市議会議員を1期6年務め上げ、知的障害者ガイドヘルパー制度の実現などに尽力いたしました。

福祉サービスの受け手から担い手へ、NPO法人ひまわり事業団の設立

〈2000年代~〉
 高齢化が急速に進み介護保険制度が導入される中、障害者福祉においても「措置から契約」へと、福祉サービスの大きな転換が起こりました。
 渡辺正直たちの活動もいちはやくこの変革の波に乗り、「NPO法人ひまわり事業団」を設立しました。 ひまわり事業団は、代表が障害者であり、障害者自らが主体となって運営しているという点で、市内に数多くある事業所とは一線を画しています。
 その後、ひまわり事業団は、静岡障害者自立生活センターの理念を「活動の4本柱(※)」として引き継ぎ、「介助派遣サービスひだまり」、「それいゆ」、「らるく」、「なな~ら」といった事業を次々に展開していきます。 いまや、ひまわり事業団は、市内有数の大きな事業所に成長いたしました。私たちの理念である「障害者主体」や「どんな重度な障害者でも地域であたりまえに生活できる社会の実現」は、まさしく渡辺正直が生涯を通して追求してきたことなのです。

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